「私には」全部が見れず、届かない、届きすぎない世界くらいが“ちょうどいい”のかもしれない

Twitterって「一手伸ばすだけで毎日新しい情報に出会える」というのが一つの魅力だったと思います。

いわゆる「集合知」もそこにあり、一方で「極端なジャンクフード」でもあり、消化型コンテンツの一つの極みみたいなところ。

その結果「情報を漏らさず見たい」みたいな欲求に転換しちゃったりするのかなと思うのですね。

そして、見れないことに凄くストレスを感じちゃったりするわけですが、見れたら見れたで、届いたことでザワついちゃうようなツイート、昨今、凄く多かったと思うのですね。

それがどんどん届いて、食べて、消化されて、次の話題にまた食いついて…と、その循環は情報のわんこそば状態。

それを考えていて浮かんだのが「回覧欲求の化け物じゃないか」という点。

※前置きしておきますが、以下にでてくる全ての「欲求」という表現はそれを否定するものではありません。

少し前にTwitterアカウントが生きてる頃にチラっと書きましたが、Twitterにおいてはよく言われる「承認欲求」の他に、割と広く強く「回覧欲求」みたいなのがあるのかなぁと思ってます。

そこには同時に「共感欲求」もある、みたいな書き方もできるかと思うのです。

本来、承認欲求というのはある程度ユニーク的なもの、自分の表現とその評価によって満たされるべくあったと思うのですが、一方で回覧欲求は「何かを見つけた自分を褒めて欲しい、そして“共感欲求によって自分と同じ気持ちを持って欲しい”という衝動」かなと思うのです。

ただし、本来がリツイートはそういう心理に刺さる機能ですし、それ自体は別に誰にでもあるようなものなのです。

しかし、それがあの一見フラットに見えて、そして反響が始まると恐ろしい速度でリツイートによって拡がっていく場において、それがエスカレートしていってるのかな、と思うわけです。

それが、例えば昔なら見つからなかったような片隅の石ころのようなものまで回ってくるようになった気がするのですね。溢れすぎてきた。

「もう少し見えなくてもいいのになぁ」

みたいな風に感じるのはわりとあったりしてます。

ちょっと不便なfediverseは「届きすぎない」にちょうどよさを感じたりしてるところです。それは検索性の低さなんかもおそらくあったりするんですよね。

いつも通り、とりとめのない形で終わりますが、これなんかも「そう面白いオチのない世界でいいんじゃないかなー」みたいなところ、ですね。

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